唯識の基本語解説

          

(1)八識

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つのこころのこと。このうち眼識から身識までの五づは順次、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの感覚に相当する。いまの一瞬に、わたしを含めてわたしの周囲に展開する現象世界は、まずはこれら五つの識のはたらきによって構成される。つぎの意識は、感覚とともにはたらいて感覚の世界をはっきりと詔議するはたらき、あるいは、ことばを用いて対象を概念的にとらえるはたらきをもつこころである。以上、意識までの六つ識は、そのはたらきを具体的に認識することができる表層心である。つぎの末那識と阿頼耶識とは表層心の奥ではたらく深層心である。 

 

(2)阿頼耶識

 わたしたち、ひとりひとりのこころの深底にはたらく根源的なこころいう。阿頼耶とはAlayaという梵語の音訳で、「蔵(おさ)める」という意味。すなわち、この根源的なこころのなかには、無始の時よりこのかた、わたしが行なってきたありとあらゆる業の影響が、植物のたねのように、いわば種子となって蔵められている。この意味でこの識は蔵識とも意訳される。また、このこころのなかには、未来のわたしのありとあらゆる可能性が、たとえば、わたしが仏陀(覚者)になるという可能性もが潜在約な力、すなわち種子のかたちで貯えられている。このようにあらゆる種子を蔵めているという点で、この識はまた一切種子識(いっさいしゅうじしき)ともよばれる。

 この阿頼耶識から、わたしを含めたすべての存在が、すなわちわたしのこころ(識)とわたしの肉体(有根身)とわたしをとりまく自然界(器世間)とが生じる。ふつうわたしたちは肉体や自然界を眺めて、それらはこころを離れてこころとは別のものとして存在すると考えるが、唯識思想は肉体も自然界もそれぞれ各人の阿頼耶識から生じたもの、すなわち、こころの一部であると主張する。すべてのものは阿頼耶識から生ずるということを阿頼耶識縁起とよぶ。また、唯だ、こころのみがあり、こころの前に現われるさまざまの事物(境)はこころを離れては存在しないという教理を唯識無境という。

 ただここで注意すべきは、唯識無境といっても、けっして、それは、この世にはわたしの

みが存在するのだと考える独我論ではないということである。唯識とは、くわしくは人々唯識(にんにんゆいしき)といわれ、わたしたちひとりひとりは、それぞれ各人の阿頼耶識を根底として展開したこころの世界のなかに住んでいるという意味であり、けっして自分以外の他人の存在を否定しているわけではない。むしろ唯識あるいは唯識無境の教理は、わたしたちに真の他人とはなにかということを教えてくれる。たとえば、「我と汝は唯識所変、縁じられたり縁じたり」と古来から詠われているように、ある他人は、わたしを離れてわたしと無関係に冷たく存在する他人でない。その他人とは、わたしのこころのなかの他人であるから、その他者を温かく受けとめることができる。またわたしという存在は他人のなかにも現われる存在であるから、わたしはわたしだけのわたしではない。他人のなかのわたしでもあると考えて、わたしのあり方を厳しく律することになる。このように唯識、唯識無境、人々唯識は、自然科学の理論のように物事を客観的に静的にとらえた教えではなくて、人間いかに生きるべきかを説き示す実践的かつ動的な教えである。

 

(3)末那識

  深層心の領域ではたらく自我執著心のこと。ふつう自我意識とよばれるものは、たとえば、わたしの肉体を眺め、あるいはわたしのこころの作用を対象として、「これはわたしの肉体、あるいはわたしのこころである」と考えて、そこに「わたし」という存在を設定するこころをいう。このはたらきは、八識のうちで第六番目の意識が行なう、いわば表層的な自我意識である。

ところで唯識瑜伽行派はこの表層的な自我意識がそこから生じてくる、より根源的な深層の自我意識を発見し、それを末那識と命名した。末那とは梵語manas音訳で「考える」 (思量)という意味。したがって思量識とも意訳される。思量とは、くわしくは恒審思量(ごうしんしりょう)といわれる。すなわち、恒に考え、審(つまびら)かに考えるこころという意味である。恒に考えるこころであるとは、この末那識は、眠っていても醒めていても、いな、生死輪廻するかぎり、つねにこころの奥深くで「わたし、わたし」と自我を設定してその自己に執著しつづけるこころであるからである。審かに考えるとは、このこころは、我癡(自己についてのおろかさ)、我見(自己の設定)、我慢(自己へのおごり)、我愛(自己への愛着)という四つの煩悩とつねにともにはたらいて、根源的なこころである阿頼耶識を対象にして、それを「わたし、わたし」と審かに、執拗に執着するからである。

 ところで真の意喋での善行を行なうためには、この深層の末那識をなくさなければならない。わたしたちは喜んで他人に慈悲の手を差しのべる。しかしその際に気をつけるべきは、そこに「わたしが他人を救ってあげたのだ」というおごりたかぶるこころが、深層の領域ではたらいているかもしれないということである。一片の自我意識でもはたらくならば、その慈悲行は真の善行、ほんとうの無我行ではない。末那識をも滅したのちの衆生済度、これが唯識瑜伽行派が目指す理想の最高の慈悲行である。

 

(4)種子

  種子(しゅうじ)とは、術語的には「生果の功能」といわれ、阿頼耶識のなかにあり、あらゆる存在を生み出す力をいう。力といっても、けっして現代の科学でいうような外的なエネルギーなどの力ではなく、自己のこころの奥深くにはたらきつづける、いわぼこころの特殊な形態、それも、縁を得ればかならず、植物の種子から芽がでるように、なんらかの具体的な結果をもたらす、そのような精神的エネルギーである。

 種子はそれが形成される面からみれば先天的なものと後天的なものとにわけられる。後者の後天的なものとは、過去の業(行為)によって植えつけられた(=熏習された)種子である。たとえば、わたしはいま、昨日はなになにをした、と昨日の出来事を思い出すことができる。その出来事の記憶は、昨日のわたしの行為によって、阿頼耶識のなかに種子として植えつけられ、それが一日たって、なんらかの縁で芽をふき、具体的な記憶となってわたしの表層のこころのなかに生じたのである。もちろん問題は昨日の行為だけではない、わたしは無始の時より今まで、無量・無数の悪業をつみ重ねてきたのであるから、わたしの深層心理の領域には、もはや数えきれないほどの悪の種子が貯っているということ、したがってわたしは、ありとあらゆる悪業をこれからも行なう可能性をもっているということである。

 先天的にそなわった種子として重要なものは、わたしは、今は凡夫の身でありながら、すでに仏になる力、すなわち仏の種子をもっているということである。問題はこの素晴らしい種子にどのような縁を与えて、その種子から芽をふかせるかということである。

その縁となる行為の一つが、正しく仏の教えを聞くこと(正聞)であり、あるいは六波羅蜜多といわれる他者救済の利他行を行ずることである。

次に種子を生成の面からわけると、名言種子(みょうごんしゅうじ)と業種子とに分類される。名言種子とは、いま一瞬のわたしとわたしをとりまく世界とを作り出す種子のことである。その種子を名言すなわち「ことば」の種子とよぶのは、わたしを含めてわたしがその中に住んでいる世界、すなわち現象世界は、根本的には、わたしの「ことば」のはたらきで形成されると考えるからである。事実、静かに一日を反省してみると、わたしは、つねにことばを発しながら、ことばからなることばの世界、ことばにとらわれた世界、言い換えれば、後に述べるような遍計所執性の世界にのみ住していることに気づく。

業種子とは、名言種子のなかで、悪あるいは善に色づけされた種子をいう。悪業あるいは善業によって植えつけられた種子である。この種子は、今世のわたしのあり方にはなんら関係しないが、しかし未来世のわたしのあり方を決定する重要な力をもっている。わたしが現に一瞬一瞬行う業は即座にその影響を深層のこころのなかにとどめていく。

 「こんなことを考えても誰にもさとられない」と考えて、内心に悪い思いを起すとしても、その悪業の残す種子がつもりつもって来世にわたしは地獄に落ちるのだ、と業種子の教えはわたしに警告を発してくる。

 種子、それは眼にも見えず、こころでも触れることができないものである。しかし、ヨーガ(瑜伽)を組み、表層のこころを静めることによって、わたしたちはますます自己のこころの奥底に沈潜してゆくことができる。そして「種子としての自己」を発見するならば、それは新たな自己の発見であり、自己を悪から善へと変革せしめる第一歩となる。

 

(5)四分

  ある-つの認識作用を構成する四つの心の部分で、相分・見分・自証分・証自証分の四つをいう。このうち相分とは、認識の対象をいう。たとえばいまここに一輪の花を見るとする。そこに花を見るという視覚作用がおこる。このうち「見られている花」が相分、すなわち花という相(すがた)をもつこころの部分である。見分とは、その「花を見るこころ」をいう。すなわち相分と見分とは「見られるこころ」と「見るこころ」、すなわち客観と主観とに相当する。ここで注目すベきは、ふつう認識される客観としての事物は、たとえば現前の花は、こころの外にあると考えられるが、しかし唯識説では、こころが二分化し、その一方である相分が見られる花の相を帯びた部分となっただけであり、そのこころの向う側に花という事物はけっして存在しないと主張する。唯識説はあくまで「こころがこころを見る」という認識構造を主張するのである。

 ふつう相分と見分、すなわち客観と主観とによって認識が成立すると考えられる。しかし唯識説はさらにその奥に自証分と証自証分という二つのこころの部分をたてる。このうち自証分とは、たとえば、花を見るという見分のはたらきをさらに確認し証知するこころの作用であり、証自証分とは、この自証分の確認作用をさらに確認する作用である。このように、唯識瑜伽行派は、見分→自証分→証自証分という三段階よりなる確認作用によって、ある一つの認識作用、たとえば花を見るという認識作用が成立すると考えて、四分説という独自の教理を作り上げた。四分は順次、商品の値段、店員、店長、社長にたとえられる。すなわち店員(見分)が商品の値段(相分)を確かめ、その店員の見立てを店長(自証分)が、さらに店長の見立てを社長(証自証分)がそれぞれ確認するという具合のごとくである。

 この四分説は種子との関係もからんで後に極めて複雑となり、「四分三類唯識半学」(四分と三類境とをマスターすれば唯識はすでに半分ほど学んだことになる)といわれるように、唯識学において重要かつ理解困難な教説となった。しかしこの四分鋭の眼目とするところは、感覚であれ知覚・思考であれ、あるいは汚れた煩悩のこころであれ、清い善いこころであれ、ありとあらゆるこころのはたらきは、相分ないし証自証分の四つの領域から

成立し、かつ、こころを離れてはなにも存在しないと、換言すれば、自己のこころが自己のこころを眺めているにすぎないと主張する点にある。

 

(6)三性

三性(さんしょう)とは遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)と依他起性と円成実性(えんじょうじっしょう)との三つをいい、存在の三つのありようをいう。唯識思想ではこころの存在しかみとめないから、こころの三種のあり方を表わす。このうち、依他起性とは、日常のふつうのこころそのもののあり方を表わしたことばである。すなわち、こころは因と縁という他のものに依って生起してくるから依他起性とよばれる。わたしたちは「わたしのこころ」という「もの」は実体としてあると思い込んでいる。しかしそのようなものはどこをさがしてもない。あるのはただ、阿頼耶識のなかの種子を根本原因(因)として、それにさまざまの補助原因(縁)が加わって生じるこころの流れ、しかも生じてはただちに滅する、はかない 幻の如きものであると唯識説は主張する。

 こころは他に依って生ずる、これは、たしかにわたしたちのこころを静かに観察すればこの事実に気付く。朝、目を覚ます。するとわたしと世界とをそのなかに収めこんだこころが、わたしの意志とは無関係に生じてくる。世界が一挙にわたしの周囲に展開する。また閉じた目を開ける。すると、見まいと思っても視覚の世界がわたしの前に出現する。感覚だけではない、忽然念起といわれるように、さまぎまの思いや妄念が、これまたわたしの意志とは無関係に、水面へのあぶくのように湧き出てくる。

依他起は別名、縁起とよばれる。「縁起の故に空・無我なり」という原始仏教以来の主張が、唯識思想においては、「こころは依他起であるから、こころのなかにあるわたし(我)も事物(法)も空である」と言い換えられる。

 わたしも事物も空であるということを人法二無我あるいは人法二空という。この人法二空をさらに徹底させるために、つぎに遍計所執性という存在のあり方を説く。遍計所執性とはことばによってとらえられたもの、たとえば「わたし」というもの、あるいは「お金」というもの、そのようなもののあり方を示す。すなわち、わたしもお金、けっしてこころの外に実体としてあるのではないのに、ことばや思い(煩悩)によって、あたかもこころの外にあるかのようにとらえられ、かつ執着された、そのようなものをすべて遍計所執性とよぶ。この遍計所執性は、けっしていかなる意味でも存在しない。わたしも、お金もまったく存在性のないもの、こころのなかで無理に作りあげたものにすぎないのに、しかし、わたくしたちは、そのような架空の事物に執着して迷いと苦しみの世界のなかに生きてい

のだ、と唯識思想はわたし説き示してくれる。

 最後の円成実性とは、わたしたちひとりひとりのこころが、本来のあり方に立ち戻った、た、そのようなこころのあり方をいう。本来のあり方とは、あるがままのあり方であるから、円成実性はまた真如ともよばれる。阿頼耶識をも含めてわたしたちのこころはすべて阿頼耶識の種子から生ずる。その種子の大半は、無始の時より行なってきた悪業によって植えつけられた悪なる種子である。その悪なる種子を長きにわたる修行によって徐々に滅してゆき、こころがその根底から清らかになり、心の本来的なあり方に、すなわち自性清浄心になりきったとき、そのこころのありようを円成実性という。円成実とは漢語では円満・成就・真実と解釈されるが、その原語pariniSpannaは「完成された」という意味。した

がって、ヨーガあるいは唯識観とよばれる修行や、六波羅蜜多とよばれる利他行などの修行を通してこころをますます鍛練し、最後の最後、塵ひとつ付着しない鏡のように磨きあげたこころ、そのような極めて清浄なこころ、および、そのこころのなかに現われてくる世界、すなわち「完成されたこころの世界」が円成実性という語でよばれているといえよ

う。

 唯識思想の実践的な目的は、このように汚れた自己存在を、汚れなき清らかな状態に変

化せしめることである。これを転依(てんね)すなわち「所依を転ずる」という。所依とは自己存在の基盤となる身体とこころとをいう。したがってその所依を転ずるとは、自己の身体とこころとを数多くの束縛(大きくは煩悩障と所知障とにわけられる)から解き放って、身体的にも精神的にも束縛なき自由でかつ爽快な状態となること、すなわち自己存在がその根底から質的に変化することである。

 すべてを識におさめつくす立場から、この自己存在を質的に変化せしめることを転識得智、すなわち識を転じて(=変化せしめて)智を得る、という。識は前述したように八つ

にわかれるが、このうち阿頼耶識を転じて大円鏡智を、末那識を転じて平等性智(びょうどうしょうち)を、意識を転じて妙観察智を、眼識などの五識を転じて成所作智(じょうしょさち)をそれぞれ得る。この大円鏡智ないし成所作智の四つを四智とよぶ。唯識の修行の最終目的はまさにこの四智の獲得にある。