(法相宗について)
法相宗とは法相という教えを学ぶ宗派という意味です。では、法相とはなにか。これについて簡単に説明してみましょう。法とは「存在するもの」、相とは、その存在するものの「すがた」あるいは「ありよう」です。たとえば「自分」という存在があると私たちは考えています。したがって、たとえば手をみて、それを「自分の手」といいます。しかし、ここで心を静めて「自分」と「手」という二つの言葉が指し示す「もの」が何であるかを観察してみましょう。このうち、手という言葉に対応するものは、視覚の対象として確認できます。しかし、「自分」という言葉に対応するものは、どこを探しても見出すことはできません。つまり「自分」とは、言葉の響きがあるだけなのです。これで仏教の根本教理である「自分は存在しない」という無我を悟ったのです。
心のなかに言葉を浮かべて、その言葉が指し示すものを鋭く観察すること、これが実は本当に考えるということです。このような観察方法をヨーガといいます。瑜伽と音写します。この「瑜伽」を修することなしには、広くは仏教を、とりわけ、法相宗の教理を真に理解することはできません。なぜなら、法相宗は別名唯識宗ともいわれ、その淵源は紀元後インドに興った大乗第二期の「唯識」という思想であり、その思想を打ち立てた人びとの学派を唯識瑜伽行派、すなわち瑜伽を実践して唯識という教理を唱えた学派とよばれ、瑜伽の実践が特に重要視されていたからです。このインドにおいて唯識の教理を組織集大成した人が興福寺の北円堂に祀られてある運慶作の、まさにリアルな無著像と世親像によって、日本人にもよく知られる無著と世親です。
 
そして彼らは瑜伽を実践することによって、深層に働く末那識(自我執着心)と阿頼耶識(すべての存在を生じる根本の心)との二つの識を発見し、従来の六識にこの二識を加えて全部で八つの識を立てました。そして、各人の根源的心である阿頼耶識から各人にとってのすべての存在が作りだされ、心の外に事物は存在しない(そのことを唯識所変・唯識無境といいます)、すなわち「唯識」であるという教理を宣揚したのです。
この唯識思想は、あの『西遊記』の主人公として有名な唐時代の高僧・玄奘(六〇二~六六四)によって、中国に伝えられ、彼の弟子の慈恩大師・基(六三二~六八二)によって法相宗が開かれました。そして中国に根付いた唯識の教理は、極めて精緻で複雑な教理となりました。もちろんそのような教理を真摯に学ぶことは大切ですが、瑜伽という実践に裏付けされて学ばなければ、無意味な徒労に終わってしまいます。
法相宗は、詳しくは法相性宗とも言うことができます。つまり法相宗とは、瑜伽を修して、心の中のいわば障害ないしヴェールである「相」(たとえば前述した「自分」という相)の存在を一つ一つ除去して、最後に「性」(心の本性)に立ち返ることを目指す実践的な宗派なのです。
現在、奈良・興福寺では、毎月第二土曜日に開催しています興福寺佛教文化講座に引き続き、本坊で「瑜伽行の会」を開いて、静かに坐るひとときをもっています。ご関心をお持ちの方は、ぜひご参加下さ